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「倭寇図巻」中国にも 制作時期や背景解明へ
( 来源:  发布日期:2012-01-21 阅读:次)
「倭寇(わこう)図巻」(東京大史料編纂(へんさん)所所蔵)は、室町時代を中心に中国や朝鮮を襲った倭寇の姿を唯一描いた絵画資料とされてきた。ところが、このほど北京の中国国家博物館によく似た「明人抗倭図巻」があることが判明。二つを調査してみると、謎に包まれていた「図巻」の制作の時期や背景などが見えてきた。  東大などの調査によると、絵巻はともに縦31センチ、横5メートル余。倭寇が海辺の町を襲撃し略奪、駆けつけた明軍に撃退される展開や構図は、国家博本の場面が一つ多いとはいえ、基本的に同じだ。  東大本には17世紀の絹が使われており、倭寇終結から半世紀ほど後の清代の作との見方があったが、国家博本の出現で、原本がほかにある可能性が浮上した。両者は親子か兄弟の関係で、東大本が後に模写されたらしい。  赤外線カメラによる調査では経年で見えなくなっていた、いくつかの文字が判読できた。二つの絵巻の冒頭に出てくる倭寇船は、国家博本が「弘治三年」、東大本は「弘治四年」の旗を掲げていた。弘治は日本の年号で、四年は1558年、木下藤吉郎が織田信長の家来になった年。中国では倭寇の被害が最も激しかった嘉靖30年代に当たる。  東大が絵巻を入手した際には明軍の台湾遠征の記録との題がついていたが、「弘治」の年号により16世紀の倭寇が描かれていることが確認されたと言える。  二つの絵巻を比較検討しようと東大が先月開いた研究集会では、この年号をめぐる解釈が日中で分かれた。記されていた両年は倭寇の頭目の中国人を逃亡先の日本から連れ戻し捕縛、倭寇終結へ転機の年とされるが、絵巻にあるような大がかりな戦闘の記録は見あたらない。 東大の須田牧子助教は「具体的な勝利の記録なら、戦いや武将を示す文字があるはず。特定の戦闘ではなく明軍の勝利の物語が象徴的に描かれている」との考えだ。一方、国家博の朱敏副研究館員は「明軍の最大の勝利だった嘉靖34年=弘治元年の戦いの模様で、記された年号は描かれた年を示す」と解釈する。明軍の旗に各地から動員された部隊名が記されていることなどを根拠に、目撃、体験した事実の記録との立場だ。  美術史が専門の陳履生国家博副館長は「モチーフと技術的な難しさからみて、特別な動機と、強権による組織がなければ描くことのできない規模とレベルの作品」と評価した。倭寇にたびたび襲われた揚子江下流域で盛んだった「呉派文人画」と画風を分析し、倭寇鎮圧に派遣された朝廷の高官が勝利の功績を強調して地元の画家に描かせた可能性を指摘した。  「倭寇は日本人の海賊、という解釈は中国でも変わってきている」と陳さんは話す。16世紀の倭寇の基本的なメンバーは中国人の密貿易商で、嘉靖期の戦いは海禁派と反海禁派の争いだなどの学説のあることも紹介。東大の村井章介教授は「倭寇は日本の年号の旗をたて、全員が日本風の身なりをしている。野蛮な倭人が意図して描かれているが、16世紀の倭寇は8割が中国人だとの記録もある。どこまでが写実なのか、慎重な研究が必要」と語った。  国家博には倭寇を描いた絵画がほかにもあるという。今後も日中共同で研究する方針で、東大側代表の保谷徹教授は「二つの絵を並べて研究できる新しい段階を迎えた。議論は始まったばかりで、じっくりと取り組みたい」と話した。(渡辺延志)
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